「学ぶ」は「真似る」から

f:id:hiroukamix:20200124052844j:plain「学ぶ」という言葉は「真似る」から来ているという話を聞いたことがある。赤ちゃんは、親や周りにいる人の言葉や仕草を真似しながら、様々なことを学んでいく。
 私は気に入った書道の先生の本がある。とても力強い書体に惹かれて、数十年も前に買ったものだ。それ以来ずっと愛用している。それを定期的に真似しながら、筆ペンで書いている。定期的と言っても、実は年に一回だけで、年賀状を書く時期だけだ。氏名や住所、挨拶の言葉などの字を、その本から探し真似て書く。
 真似ていると、下手な字も少しは良く見える。中々思い通りには書けないが、手本と同じように書けた時は嬉しい。何度も何度も同じ字を真似る。
 年に一回だけなので、微々たるものだが、何もしないよりは少しずつ成長しているような気がする。
 時々図書館で書道の展覧会をしている。勢いのある字や気を発している書に出会うと、心がうきうきする。写真に撮って、後で真似して書いてみる。
 一度、二メートルもある太い筆で十メートル近くある紙に書いているのを見たことがある。見事な出来栄えに感動した。それはとても真似できない。
 書道で思い出すことがある。小学校の時、書道を教頭先生が教えてくれた。この先生はとても変わっていた。書道の時間のほとんどは墨を擦るだけだった。
「墨を擦りながら心を落ち着けなさい。」
 といつも言っていた。字を書こうとすると、
「まだ心が落ち着いていない。もっと墨を擦り続けなさい。」
 と言われて、授業中に一枚書くのがやっとだった。一枚も書けず、墨だけ擦って終わることもあった。何の為の書道か分からなかった。
 この教頭先生は墨の擦り方に対してもうるさかった。
「墨の底が平らになるように真っ直ぐ擦れ。」
 と言う。これが私には中々できなかった。
 真っ直ぐ擦っているつもりが、いつの間にか右に傾いたり、左に傾いたりする。更には前や後ろに傾いてしまう。四隅を均等に擦るのは至難の業だった。教頭先生曰く、
「墨が傾くのは、心が曲がっているからだ。」
 よっぽど私の心は曲がっていたのだろう。
 更に紙が大切だからと、白い部分がなくなるまで練習させた。真っ黒になって、何を書いたかも分からなかった。
 この教頭先生は、昼食の時間も簡単には弁当を食べさせてくれなかった。目をつぶって瞑想をしながら、唾液が十分出るのを待たされた。唾液がしっかり出ていないと消化に良くない、という理由だった。
 ご飯も一口を口に入れたら百回噛めと言う。細かく砕かないと胃腸に負担がかかるからという理由だった。昼食が終わる頃には毎日顎の筋肉が疲れた。学ぶことは大変だと思った。

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by ギノ