味噌は最高の調味料

今週のお題「○○の秋」
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 今日の話題は「食欲の秋」だ。私の好物は、味噌ラーメン、味噌煮込みうどん、味噌汁、味噌漬け、味噌の田楽、味噌饅頭、味噌ネギ煎餅、味噌・・・。味噌が付けば何でも満足だ。夏はきゅうりを縦に半分に切って、味噌をつけて食べるのが大好きだ。
 実家では毎年味噌を作っていた。餅つきが終わって、しばらくしたあと、もう一度臼と杵が登場した。まず大豆を大量に煮たあと、器械に入れて、ハンドルを手で回すと、うどんのように細くなって出てきた。これをつまみ食いすると、とても美味しかった。
 この大豆を餅つき用の臼に入れ、麹と塩を加えて杵で混ぜた。それを大きな塊にしたあと、大きな樽に入れて保存した。どのくらい保存したあとか分からないが、それが毎日味噌汁やうどんの汁となって出てきた。
 子供の頃の夕食は、三百六十五日ほとんど毎晩うどんだった。うどん作りはだいたいお祖母ちゃんの仕事だった。毎回粉を練るところから始まった。私もたまに手伝った。練った塊を握りこぶしくらいに切って、器械に入れて取っ手をぐるぐる回すと細くなったうどんが出てきた。私はもっぱら、この器械を回す手伝いをした。
 うどんは決まって味噌煮込みだった。出汁は煮干しで取っていた。たまに、揚げうどんの時もあった。茹でたうどんをザルに載せて、味噌汁に入れて食べた。うどんがすいとんになることもあったが、滅多に出ないからか、とてもご馳走に感じた。
 よく毎日さつま芋やトウモロコシを食べた人が、もう見たくもない、と言うが、私は今でもうどんが大好きだ。
 山梨には、ほうとうと呼ぶうどんがある。麺が平らで太く、必ずカボチャが入っている。カボチャが溶けるまで煮込んだのが好きだ。最近は、キムチほうとうや小豆ほうとう、キノコほうとうなど家や店によって色々な種類がある。
 大学時代に下宿をしている時は、毎日自分でうどんを作って食べた。具はネギや大根、人参、ジャガイモ、キャベツ、カボチャ、インゲン、卵、肉など毎日組み合わせを変えた。手軽に作れて、美味しいのがいい。
 実家でうどんを毎日食べたのは、平地が少なく、米が余り穫れないところに住んでいたからだ。ご飯は白い米ではなく麦だった。ぺちゃんこで真ん中に黒い筋が入っていた。
 学校の弁当は麦ご飯全体の上に、鰹節を載せ、その上に海苔を載せたものが好きだった。時には、更にその上にご飯と鰹節と海苔を載せた二段ベッドが贅沢だった。
 冬になると、小学校の頃は石炭で燃やすダルマストーブだった。担任の先生が、油の入っていた四角い大きな空き缶の上のほうをくり抜いて、底に簀の子を敷き、水を入れ、その上に皆の弁当を入れてストーブに載せて蒸した。お昼の頃には熱々の弁当ができあがっていた。いつもお弁当の匂いが教室中に漂って、食欲をそそった。
 夕食は年に五回はうどんではなく、お赤飯を食べた。家族の誕生日の晩だった。祖母と父と兄と弟と私だ。母の誕生日は私と二日違いなので、私の誕生日に一緒にした。だからいつも母の誕生日だけお赤飯がなかった。私の誕生日が来ると、毎年母に申し訳ない気持ちになった。
 父の誕生日は十二月二十五日でクリスマスだ。父の姉が吉祥寺でアイスクリーム屋をしていたので、父の誕生日には、毎年アイスクリームで作った大きなデコレーションケーキが届いた。
 昔は今と違って、冬にアイスクリームを売っている店はなかった。だから冬に食べるこのアイスケーキは格別だった。冬にアイスクリームを食べるだけでも特別だったのに、アイスケーキは最高の贅沢だった。毎年、父の誕生日よりも、クリスマスよりも、アイスケーキが待ち遠しかったような気がする。親戚にアイスクリーム屋さんがあることが、こんなに幸せだと思ったことはなかった。 
 ところでお祖母ちゃんは百三才まで生きた。八十頃に転んで手を骨折してから、寝込んでしまった時がある。とても弱気になって心配した。母は優しく至れり尽くせりの介護をしていた。しかし、父はそんなお祖母ちゃんに厳しく接し、
「甘えないで、自分のことは自分でしなさい。」
 と言い、母に対しても、余り甘やかさないように注意した。
 結果として、これが良かったのだと思う。お祖母ちゃんは段々と布団から出て、自分で何でもするようになった。寝込んでいたのが嘘のように元気になった。
 母の優しい愛情と、父の厳しい愛情とが合わさって元気になり、百三才まで生かされたのだと思う。
 お祖母ちゃんは、家の周囲に生えているよもぎを摘んでは餅草饅頭を作ったり炭酸饅頭を時々作ってくれた。中に小豆あんがたっぷりと入っていて絶品だった。あの饅頭の味が懐かしい。
 私が味噌好きなので、妻は毎日朝晩必ず味噌汁を作ってくれる。定期的に味噌ラーメンも作ってくれる。今はお祖母ちゃんに代わって妻の味噌味が絶品だ。