日本の京都のようなところが、韓国では慶州(キョンジュ)だ。ここは三国を統一した新羅の千年の都だった。
ところで、新羅を日本人は「しらぎ」と読む。しかし、この読み方は蔑称だ。「しらぎ」とは「新羅の奴ら」という意味だ。
新羅に滅ぼされた百済人や高句麗人が、日本に亡命してきて、新羅を呼ぶ時に、恨みを込めてそう呼んだ。だから、日本語的には「シンラ」、韓国語の発音では「シルラ」が近いと思う。
日本は、新羅(シルラ)に百済(ペクチェ)が攻められている時に、百済に援軍を送っている。百済に近い立場なので、「新羅の奴ら」で「しらぎ」になってしまった。
百済の都だった扶余(プヨ)は新羅に滅ぼされ、王宮を初め主な建築物は皆失われてしまった。
しかし新羅には、かつての栄華を偲ばせる名所がいくつもある。三回ほど慶州に行った。特に韓国で一番美しいお寺といわれているのが、世界遺産にも登録されている仏国寺(プルグクサ)だ。吐含山(トハクサン)の麓にあり、立派な石の建築物がたくさんあった。
門の前のアーチをそなえた階段はとても有名だ。韓国紹介のポスターによく登場する。アーチは通路なのか装飾なのか分からないが、石を綺麗に並べて見事に築かれていた。美意識の高さを感じた。仏国土に向かう階段として、これほどふさわしいものはないだろう。
寺院の建物は日本に比べると、とても鮮やかな彩りだ。赤や橙色、緑や青などの多彩な色が随所に使われている。仏の世界を表現しているのだろうか?
大雄殿の前にある釈迦塔と多宝塔は最高傑作だ。釈迦塔は四角ばっていて格調高く男性的だ。多宝塔は曲線美と優雅さがあり女性的だ。ただ石を積み上げただけの構造とは思えなかった。あれだけの複雑な形を組み立てるには、相当な技術と熟練が必要だったと思う。塔建立にまつわる悲話を聞いたが、それだけ魂を込めた犠牲と精誠の賜物だったに違いない。千年以上も形を保てたのは奇跡だ。
仏国寺を更に上に登って行くと、世界遺産に登録された石窟庵(ソックラム)がある。薄暗い石窟の中に、大きく立派な如来坐像が窮屈そうに安置されていた。東を向いて日本海を見つめている。額にはガラスが埋め込まれていて、太陽が上ってくると光を反射する仕組みになっている。
実は昔、倭寇が日本海から船で攻めて来たので、それを追い払う為に、東を向いて睨みを効かせているのだという。光を反射するのも、倭寇を押し返す意味があると聞いた。
石窟庵の如来坐像はとても美しかった。訪れた時に、丁度光が差し込み、仏の顔が微笑んでいるように感じた。私には東を向いて、日本を見守っている優しい仏に見えた。
韓国の寺院を訪問して、日本の寺院との違いを幾つか感じた。韓国の寺院は、街の喧騒から離れた、山の中の静かなところに多いように思う。また、韓国人が訪れる目的は、観光というより、お経を上げたり、お祈りをしたり、敬拝を捧げる、いわば信心を動機にしている人が多いように思われた。魂の拠り所として、生活に根づいた仏教だと思った。
新羅時代の精神的支柱となった花郎(ファラン)道の聖地に行った。平野を見下ろす、眺めの良い高台にあった。
花郎道は仏教の弥勒信仰を初め、儒教や道教の影響を受け、仁愛や忠節、信義を徳目としたようだ。新羅が三国を統一した時の、重要な原動力になったという。
花郎道が日本の武士道のルーツになったという話を聞いたことがある。花郎の長官を「源花」という。源氏のルーツだと言われる。桓武天皇の母は百済出身と言われるので、平氏は百済と関係が深い。日本の源氏と平氏の争いは、韓国の新羅と百済の争いの延長線かもしれない。
このように日本と韓国には、とても深い縁があるように思われる。日本的なもの、と思われているものの中に、意外と韓国から来たものが多い。
国技といわれる相撲は、元々モンゴルの相撲が、朝鮮半島を経由して、日本に渡って来たと聞いた。白鵬がまた優勝して記録を更新し続けているが、モンゴル人が強いのは、当然かもしれない。日本人も韓国人も、遺伝子を辿ると、バイカル湖畔に住んでいたモンゴル人だという。確かに、赤ん坊のお尻には蒙古斑がある。
桜はヒマラヤからシルクロードを通り、済州島を経由して日本に入って来たという。桜は日本の象徴というイメージが韓国にあり、反日感情を持った人たちが、一時韓国中の桜の木を切り倒そうとした。しかし、元々桜は韓国から日本に渡ったものだと誰かが言い出し、逆に韓国中に桜を植える運動が起こった。以前、三十八度線から仁川(インチョン)空港に行く時、バスから見ていたら、植えたばかりの桜の街路樹がかなりあったのを覚えている。
焼き物にいたっては、有田焼、薩摩焼、伊万里焼、唐津焼、萩焼など韓半島由来のものが多い。有田焼を始めた李参平は有名だ。
神社も、イスラエルの神殿が長い旅路の末に、朝鮮半島を経由して、日本に来たという。イスラエルの神殿と日本の神社の造りは、とても似ている。韓半島にも古くは神宮という祭祀を執り行う場所があったと聞いた。
聖徳太子も、百済や高句麗の僧や学者に師事していた。日本の国宝第一号は、聖徳太子が秦河勝を通して、京都の太秦広隆寺に安置させた弥勒菩薩半跏思惟像である。この仏像は朝鮮赤松で作られている。日韓の深いつながりを感じる。
漢字と儒教は、百済の王仁(ワニ)博士が千字文と論語を日本に伝えたことが始まりだ。仏教も百済から日本に伝わってきた。日本語も古代朝鮮語から来ている、という説がある。古事記や日本書紀、万葉集も古代朝鮮語や東洋思想の影響を色濃く受けているという。
日韓ワールドカップ共催の時に、天皇陛下が、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫である、と続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」(二〇〇一年十二月十八日)と発言したことも話題になった。
日本と韓国は過去の問題でもめることが多い。日韓は元々人種的にも、歴史的にも、文化的にも兄弟のような関係がある。いつまでも兄弟喧嘩をするのではなく、もっと仲良くなれたら良いとつくづくと思う。