イチゴ狩り

f:id:hiroukamix:20200309102821j:plain 毎年今頃になると、イチゴ狩りに行く。田んぼに囲まれた場所で、普段人が少ない上に、コロナで更に人が少ないだろうと思って行って来た。
f:id:hiroukamix:20200309102747j:plain 大きなハウスの中に入ると、とても暖かった。上着もマフラーも帽子も脱いで、シャツも腕まくりした。20メートル位ある長い畝が、20列位並んでいた。トチオトメという品種のイチゴだ。人が少ないので、一人が一畝づつ独占してゆっくり食べることができた。
f:id:hiroukamix:20200309104047j:plain まだ色白のも混ざっていたが、真っ赤な顔をして、葉っぱの下に隠れていたり、畝の横につる下がっていた。
 真っ赤で大きな粒を見つけて、口の中に入れると、ほんのりとした甘さが口に広がった。飛びっきり甘いという訳ではないが、満足の味だった。
f:id:hiroukamix:20200309104022j:plain 蜜蜂があちこちをブンブン飛んでいた。白い花の受粉を一所懸命手伝っていた。良く見ると、畝の端に蜜蜂の箱があった。蜂蜜も作っているのだと思う。
 真っ赤なイチゴを見つけては食べ続けて、30分位するとお腹が一杯になった。幾つ食べただろうか?まだ15分残っていたので、写真を撮ったり、美味しそうなのを見つけては食べたりしながら、時間を過ごした。
 ハウスの外に出ると、庭に黒鶏、やぎ、うさぎ、ミニぶた、インコなどの動物もいて、子供も楽しめる場所だった。
f:id:hiroukamix:20200309105130j:plain 駐車場では、満開の河津桜が迎えてくれた。真っ青な空と対照的で、ひときわ美しかった。

メダカの学校の卒業式

今週のお題「卒業」
f:id:hiroukamix:20200312054712j:plain 子供が小さい時に、家の近くの小川にメダカをよく捕りに行った。魚の網ではなく、昆虫を捕る網を持って出掛けた。
 近所に小川は沢山あった。メダカもどこにでもいた。しかし、網を持って川に近づくと、メダカは一目散に逃げて行った。気配を感じただけで、察しが早い。
 その場に、じぃっと待っているとメダカが戻って来た。そこをすかさず、エィッと瞬時に網を入れる。すると、必ず何匹か捕れた。
 10匹位捕まえると、ペットボトルに入れて、家に持ち帰り、以前金魚を飼っていた水槽に入れた。メダカの学校の入学式だ。
 毎日の授業は体育だけで、水泳とダンスのみ。そして、食事の時間があった。学校の掃除は時々私が担当した。
 数年が経ち、私は野菜の学校が忙しくなった。子供も段々興味を示さなくなったので、申し訳ないが、メダカの学校は閉校することにした。いよいよ卒業式を迎えた。また元の小川に行って、蛍の光を歌った後、全て放した。メダカたちは伸び伸びと泳いで行った。少し季節外れの卒業式になってしまったが、やはりメダカたちは学校よりも自分の家の方が嬉しそうだった。

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新しい校歌と卒業式③

今週のお題「卒業」
f:id:hiroukamix:20200311040145j:plain 小学校の頃の遊び場所といえば、山や川だった。
 正月には、決まって凧上げをした。大会で、一番遠くまで飛ばして一等になったことがある。しかし、最後に糸が切れてしまい、凧が山の中に消えてなくなってしまった。とても愛着があった凧なのでがっかりしたが、賞品に別の凧をもらい気を取り直した。
 遊びといえば、ベーゴマ、メンコ、ビー玉、竹馬、トランプ、花札、双六、将棋、五目並べなどをよくやった。
 ベーゴマは、まず桶の上にテント用の頑丈なシートをかぶせて、ロープでしっかりと固定して「とこ」を作った。その上で勝負するのだ。ベーゴマに固く紐を巻きつけて、「エィっ」と掛け声をかけて、「とこ」の上でコマを回した。「とこ」から、はじき出されたり、先に止まったら負けだ。真剣勝負だった。とてもワクワクした。ベーゴマには野球選手の名前が刻まれていた。「川上」が一番人気だった。「稲尾」「国松」「金田」「長島」などがあったのを覚えている。
 竹馬も楽しかった。三メートルもある竹に、縦に二つに割った薪を針金でつけて足場を作った。足が二メートルもある竹馬だった。高さが二メートルくらいの石垣の上から竹馬に乗った。目の高さは三メートル以上だ。上から仲間を見下ろすのは気持ち良いものだった。
 夏は川で釣りや水遊びをした。ハヤという十センチ前後の魚をよく釣った。川は泳ぐほど広いところがなかったので、滝壺などで潜って遊んだ。一度滝壺から出られなくなって死ぬかと思ったことがある。必死にもがいて水を何杯も飲んでやっとのことで出て来た。五十年以上前のことだが、今でもあの恐怖をはっきり覚えている。 
 冬になると、必ず雪が積もった。すると、自家製のソリで山道を滑った。ソリは板と竹で作った。誰のソリが一番早いか競争したものだ。毎年工夫をこらして、ソリを改良するのが楽しかった。
 スキーも板と竹を使って自分で作った。靴を入れるところは、近所で機織りをしていたので、古くなった機械のベルトを切って使った。山の斜面の畑がスキー場だった。小さなジャンプ台も作って飛んだ。雪のない時は、長い直線の山道に葉っぱをたくさん敷いて、葉っぱスキーをした。
 冬のもう一つの楽しみはスケートだ。河原の日陰になるところに水を引いて、自然に凍ってリンクができた。初めは下駄の底に刃がついていて、紐で結んで滑ったが、不安定で転んでばかりいた。親にお願いしてスケート靴を買ってもらった。それからは、転ばずに滑れるようになった。 
 時々、山中湖にスケートに行った。湖が凍り広い自然のリンクになった。スケートに疲れたり、飽きると、湖の氷に穴を開けて、ワカサギを釣った。細いノコギリで、直径が三十センチほどの穴を開けて、短い竿で釣り糸を垂らした。
 すると小さなワカサギがたくさん釣れた。七輪でその場で焼いて食べると、最高のご馳走だった。
 一度、湖の氷の割れ目に人が落ちたのを見たことがある。すぐに助けられて、事なきを得たので良かった。自然のリンクは危険が伴う。
 小学校を卒業してからは、川も山もほとんど縁がなかったような気がする。「ふるさと」の歌が身にしみる昨今になってしまった。

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新しい校歌と卒業式②

今週のお題「卒業」
f:id:hiroukamix:20200308225345j:plain ところで小学校の時、書道を教頭先生が教えてくれた。この先生はとても変わっていた。書道の時間のほとんどは墨を擦るだけだった。
「墨を擦りながら心を落ち着けなさい。」
 といつも言っていた。字を書こうとすると、
「まだ心が落ち着いていない。もっと墨を擦り続けなさい。」
 と言われて、授業中に一枚書くのがやっとだった。一枚も書けず、墨だけ擦って終わることもあった。何の為の書道か分からなかった。
 この教頭先生は墨の擦り方に対してもうるさかった。
「墨の底が真っ平らになるように真っ直ぐ擦れ。」
 と言う。これが私には中々できなかった。
 真っ直ぐ擦っているつもりが、いつの間にか右に傾いたり、左に傾いたりする。更には前や後ろに傾いてしまう。四隅を均等に擦るのは至難の業だった。教頭先生曰く、
「墨が傾くのは、心が曲がっているからだ。」
 よっぽど私の心は曲がっていたのだろう。
 更に紙が大切だからと、白い部分がなくなるまで練習させた。真っ黒になって、何を書いたかも分からなかった。
 この教頭先生は、昼食の時間も簡単には弁当を食べさせてくれなかった。目をつぶって瞑想をしながら、唾液が十分出るのを待たされた。唾液がしっかり出ていないと消化に良くない、という理由だった。
 ご飯も一口を口に入れたら百回噛めと言う。唾液とご飯がしっかり混ざらないと、消化できないからだと言った。昼食が終わる頃には毎日顎の筋肉が疲れた。
 卒業後に担任の先生のことよりも、ほんの僅かしか教わっていない教頭先生の方が覚えているのは不思議だ。

続く

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新しい校歌と卒業式①

今週のお題「卒業」
f:id:hiroukamix:20200308225343j:plain 卒業式で記憶に残っているのは、小学校の時だけだ。中学や高校はもっと新しい記憶のはずだが、覚えていない。大学はそもそも卒業式に出なかった。
 小学校は全校生徒が100人位で、田舎の小さな学校だった。卒業生は26人。
 しかし、その後子供の数が減って、残念ながら廃校になってしまった。今は福祉施設に生まれ変わり、地域で新しい役割をしている。
 何故小学校の卒業式を覚えているかと言うと、卒業の年に校歌ができたからだ。それまでも学校行事のたびに歌を歌っていたが、「校歌」ではなく、「児童会の歌」だった。私は「児童会の歌」が、ずっと「校歌」だと思っていたので、突然「校歌」ができたと聞いて、不思議な感じがした。
 卒業式では、「校歌」と「仰げば尊し」を歌った記憶がある。自分達の代で初めて校歌をお披露目できる、という誇りを持って歌ったのを覚えている。
 小学校は川沿いの一本のでこぼこ道の山側に建っていた。一本道は坂になっていて、私は学校の下の部落から毎日坂を上って通った。下の方に二つ、上の方に四つほど部落があった。
 学校の上と下の部落に分かれて喧嘩をしたり、男の子だけ授業をサボって山登りに行ったり、滅茶苦茶なことをよくしていた。

続く

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リンカーンとストウ夫人

f:id:hiroukamix:20200304095611j:plain「アンクル・トムの小屋」という本がある。誰でも子供の頃に読んだのではないかと思う。ハリエット・ストウ夫人の著書だ。リンカーン大統領が、奴隷解放運動をするきっかけになった本と言われている。
 リンカーン大統領がストウ夫人と会って話をした時のことだ。リンカーン大統領はストウ夫人に言った、
「あなたのような小さな方が、この大きな戦争を引き起こしたのですね。」
 ストウ夫人は答えた、
「あの本は私が書いたのではありません。奴隷制度を見て憤られた神が書いたのです。私は単なる神の道具に過ぎません。あなたこそ、奴隷解放の為に勇気を持って立ち上がりました。」
 すると、リンカーン大統領は答えた、
奴隷解放は私がしたのではありません。神がなさった正義と愛の偉大な運動です。私も神に使われた一つの道具に過ぎなかったのです。」
 偉大な人物は共通して、私心がない。だから天が用いることができるのだと思う。坂本龍馬西郷隆盛、皆同じだ。歴史が大きく動く背景には、必ず私心のない義人や偉人の存在がある。

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最高に嬉しかった卒業

今週のお題「卒業」
f:id:hiroukamix:20200306223617j:plain 卒業式は親しい友達との別れが伴うので、好きではなかった。しかし、一つだけ、嬉しい卒業があった。自動車教習所の卒業だ。今から、35年位前のことになる。
 私は自分が車を運転するのは、絶対不可能だと思っていた。後ろから見ていると、右手でハンドルを握り、左手でギヤを操作し、右足でアクセルを踏み、左足でブレーキを踏む。左右のサイドミラーを見たり、バックミラーを見る。
 こんな複雑なことは自分には絶対無理だ、と思っていた。標識もちらちらと見ながら、同乗の人達と話もしている。私には、車を運転する人が皆スーパーマンに見えた。
 教習所の門をくぐった時は、清水の舞台から飛び降りるような覚悟だった。実際に運転してみると、やはり難しかった。何度も路肩に乗り上げたり、操作ミスをした。
 最後に路上検定があったが、一度目はあっけなく失敗に終わった。試験は、助手席に乗っている教官がブレーキを踏んだらお仕舞いだ。
 私は教習所から公道に出る所で、左右を良く見ずに前進しようとして、あっという間に隣の教官にブレーキを踏まれてしまった。公道に出て、僅か10センチ位だろうか。痛恨のミスで、がっかりして力が抜けてしまった。やっぱり駄目かと、自信喪失と自己嫌悪で一杯になった。
 気を取り直して、二度目の試験でようやくパスした。だから、教習所を卒業できた時は天にも昇る気持ちだった。

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