私は子供の時に真剣に猫になりたいと思った。猫に心底あこがれていた。などと言うと変人と思われるかもしれない。
子供の頃に家で色々な動物を飼っていた。スピッツでシロという名前の犬がいた。文字通り真っ白でふさふさした毛のオスの子犬だった。最初は家の中で飼っていたが、お客さんが来ると大きな声で吠えてうるさかったので、家の裏に犬小屋を作って飼った。
その頃ペットフードなどという洒落た物はなかった。余ったご飯に野菜と味噌汁を掛けたものがご馳走だった。鳥の骨なども喜んでしゃぶった。「お手」や「おすわり」など一通りのことができる賢い(普通?)犬だった。
鳩も飼っていた。クックッと鳴きながら頭を前後に動かして歩く姿が愉快に見えた。時々、鳩を小屋の外に出した。群れをなして家の上空をぐるぐる回りながら飛んだ。必ず皆戻って来るのが嬉しかった。たまに、よその鳩を連れて帰ることもあった。次に飛ばすと、元の主に帰ったのか、一緒に戻って来なかった。
庭には池があり、黒や赤の鯉や金魚がいた。川で釣った魚も放して一緒に泳がしていた。鯉や川魚をじーっと見ていると飽きなかった。
飼っていた訳ではないが、狸やキジなども家の周りに姿を現した。裏山には熊や鹿も出没した。今でも猪が庭の百合の球根や竹やぶの筍を食べに来る。最近は猿や鹿が畑を荒らしにやって来る。
昔隣の家では山羊を飼っていて、お乳をもらって飲んだがとても濃い味だった。
猫も飼っていた。私は子供の時に、猫になりたいと本気で思ったことがある。猫が羨ましかったのだ。
猫の名前はマリと言った。白と黒の斑模様の毛をしているメス猫だった。寝ていると、よく布団の中に入って来た。冬は湯たんぽ代わりになった。朝起きてみると、兄の布団の中で子猫を何匹か生んでいたことがあった。その後、その子猫たちがどこに行ったかは覚えていない。
マリはいつも何もしないで、毬のようにじーっと丸くなって寝そべっていることが多かった。だからマリと名づけたかどうかは分からない。
マリは好きな時に起きて、好きな所に行って、好きな時に帰って来て、好きな時に寝ているように見えた。人と話す必要もないし、作文を書く必要もない。何かを考えているようには思えなかった。私はそんなマリがとても羨ましかった。だから猫になりたかったのだ。
私はこたつで背を丸くして座り、両手を頬のつっかえ棒にして、そんなマリを羨望の眼差しでじーっと見つめていた。マリと目と目が合うと、
「恥ずかしいので、そんなにじっと見つめないで欲しい。」
とマリが言っているように感じた。
何故自分は猫に生まれて来なかったのか、いつも悔やんだ。
猫と話ができないので分からないが、猫は猫で色々苦労しているのだろうか?人間に生まれたかった猫もいるのだろうか?猫からは人間が羨ましがれているのかもしれない。
猫が喋ったら、
「猫を舐めるんじゃないよ。猫には猫の悩みや苦しみがあるんだ。この人間は、何て馬鹿なことを言っているんだ。代わって欲しけりゃ、いつでも代わってやるよ。」
と言いそうだ。
しかし、それも今となっては昔のことだ。今は人間も捨てたものではない、と思っている。話すことも書くことも楽しいからだ。過去の自分では考えられない。言葉で表現できることがどんなに幸せなことか、とつくずくと感じるこの頃である。猫には失礼だが、猫に生まれて来なくて良かった。